ベトナム現地直送・アオザイ通信2011年4月号
春さんのひとりごと
< いつか帰る 愛の故郷 >
このサイゴンで、私や私の友人たちと親しくお付き合いさせて頂いた一人の日本人が、三月末に日本に帰られることになりました。日本での新しい仕事が、また始まるからでした。
その人とは、 SB さんのことです。 SB さんは三年四ヶ月ほど前にベトナムに来られ、 Binh Duong( ビン ユーン ) 省 に千坪の広大な喫茶店・ Gio va Nuoc( ゾー バー ヌック:風と水 ) を開かれましたが、そこでは主に経理を担当されていました。
日本でも経理畑を長い間歩かれて来ましたが、このベトナムでも、ゼロから始めたその喫茶店の経理のシステムを作り上げることに力を入れられました。今回の新しい仕事も、日本、そしてこのベトナムでの経験豊富な経理の知識と、深い識見を日本の会社から請われてのことで、日本での新しい仕事は経理部長の職に就かれるということです。
SB さんは私たちといつも 「ベンタン屋台村」 で話していた時に、ベトナムでの初期の苦労話をいろいろと話されました。それはベトナムで実際に会社の設立に加わり、そこの経理システムを自分で創り上げ、日々の「経理」という地道な作業をこなす人でないと見抜けないような、面白い体験談でした。
ある日、 SB さんがベトナム人の部下を伴い、喫茶店の開設に伴う必要な材料を、一枚のメモ用紙に書き込んで、スーパーに買出しに行きました。そのメモ用紙に書かれていた必要な材料を買い終わり、いざレジで清算しようとすると、ベトナム人の部下が「ちょっと待っていて下さい。」と言って商品棚まで行き、両手に何か持って帰って来ました。
( もう全て必要な物は買い終えたはずなのに・・・ ) と SB さんは怪訝に思い、「それは何だ?」と聞きますと、「チューインガムです。」とその部下は答えました。 SB さんが怒ります。「何で会社の金でガムなんかを買うんだ!自分が欲しいんだったら、自分の金で買え。」と。
するとその部下の人は、「いえ、違います。自分が欲しくて買うのではありません。これはお釣りのために、購入しておくのです。」と答えたのでした。「お釣り・・・?ガムをお釣りの代わりにお客さんに渡すのか。」と、 SB さんが戸惑いながら聞きます。すると「その通りです。」と、その部下が答えたのでした。 SB さんは「・・・!?」と、ポカンとしていたそうです。
そしてしばらく SB さんはこの事例を参考に分析・研究して、 【ベトナムの貨幣制度】 の、日本とのあまりの違いを知ることになります。それは貨幣の最小単位が 200 ドン(約 0.8 円)であり、 100 ドンの貨幣がないことでした。それでも大した支障が無く、スーパーや市場でもお金のやり取りがされているのが不思議でした。双方にとって都合のいいように、切り上げたり、切り下げたりしているようでした。
もしお客が、 19,900 ドンの品物を購入して、 20,000 ドン札で払うとしても、お釣りの 100 ドンはありません。それで実際には無い 100 ドンの代わりに、そのお釣り代わりに渡すのが、一枚のチューインガムなのでした。時には飴一個をもらうこともありました。
渡されたそのガムや飴を、もらう・もらわないはお客の自由です。
私がベトナムに来た当初からこのやり方でしたから、ずっと以前から行なわれて来ていたのでしょうか。でも昔の古い紙幣には、確かに 100 ドン札がありました。そして時に一枚のガムの代わりに、男性のお客の場合には、一本のタバコの場合もありました。 ( もしタバコを吸わないお客だったらどうするんだ・・・ ) と思いましたが。
SB さんはそれらの事情が次第に分かって来るにつれて、あらためて驚きました。 ( 銀行や大きな百貨店や会社などは、一体どうなっているんだろうか・・・? ) と、日本で経理の長い道を歩いて来た経験と自信が、このベトナムで揺らいできました。
確かに、日本では銀行などでその日の出入金が一円でも合わないと、その原因を突き止めるまで、全員が居残り・残業して、ピタッと一円単位に合うまで家に帰れないという話を良く聞きます。もし店長が、 ( たかが一円のためにみんなが残業するのだったら、自分が自腹を切ってみんなを早く帰そう。 ) などと哀れに思い、自分の財布からその一円を出したら、すぐ懲戒免職になると聞いたこともありました。
SB さんはベトナムでのそういう実態を調べていくうちに(こんなやり方だったら、銀行でも、スーパーでも、レシートや伝票と現金残高が合うのが不思議で、むしろ合わないほうが当たり前だろうな・・・。)と想像しました。実際私も銀行で両替した時に、両替票と完全に一致した金額を受け取ることは、まずありません。下の小さい桁は、切り捨てられていつも受け取ります。銀行側が損しないようなやり方になっています。
粘り強いdは、映画の中で風下を誰が演奏
さらに今毎月払っている水道代、電気代、電話代などの場合は、全て伝票上の数字の 100 ドンの単位からではなく、 1,000 ドンの単位から切り上げて請求して来ます。例えば、今月の我が事務所の水道代の伝票上の表記は、 69,115 ドンでした。すると、集金人は私に 69,000 ドンではなく、 70,000 ドンと請求してきました ( ここの区域だけなのかは、良く分りませんが ) 。 885 ドン ( 約 3,5 円 ) のお釣りは返しません。毎月そうです。
それは国庫に入るのではく、当然集金人のフトコロに入ります。一人が受け持つ集金の区域には多くの家がありますから、集金日には集金人さんのフトコロはホッカ・ホッカと温かくなっていることでしょう。でもそれに目くじらを立てている人は見かけません。
私たちのような普通の消費者にとっては、 100 ドンや 200 ドンの違いは大したことはないのですが、日本で毎日細かく、ビシッと収支を合わせていた SB さんには、日々の出入金が 【合わないのが常態】 というのは切実な問題でした。一人で 100 ドンずつの差が出れば、多くのお客が出入りする店では、毎日大変な誤差が出てくるからです。
そこから SB さんは、 ( こういうやり方では経理がズサンになり、毎日の出入金が分らなくなるなー。 ) と考え、下の 100 ドン単位までビシッと合うシステムを、いろいろ試行錯誤の上に考案して、システム化したと話されました。それからは、従業員がスーパーにお釣り用のガムを買いに行く必要はなくなったのでした。それがどういうシステムなのかは、私自身はあまり興味がないし、例え聞いても良く分らないだろうと思いましたので、深くは聞いていませんが・・・。
SB さんはホーチミン市の一区のアパートに居を構えて、毎日バスで一時間以上を掛けて、 Binh Duong にあるその喫茶店まで通われていました。そのアパートには、たまたま Saint Vinh Son 小学校 の支援者・ A さんも住んでいました。 A さんが「今サイゴンに住んでいる日本人の人たちを紹介しますので、ベンタン屋台に来られませんか。」と誘いますと、「毎日仕事が忙しくて、なかなか時間が取れません。」と、しばらくは断られていました。
そしてようやく、ベトナム滞在の一年目を過ぎた頃に、 SB さんがベンタン屋台に登場されたのでした。この最初の時には、後に大親友となる Y さんは、たまたま日本に帰られていました。そして Y さんがベトナムに戻られてからは、回を重ねるごとに二人の親交が深まって行ったのでした。 SB さんと Y さんが急速に親しくなったきっかけは、二人の趣味がたまたま魚釣りだったことから意気投合されたのでした。それ以来、二人で釣竿を抱えて、バイクでサイゴン近郊のブンタウや、近くの釣堀りに出かけられたのでした。
最近私はお二人の絆の強さ、麗しさに関して、ある一つのエピソードを聞いた時に、 ( そこまでの深い繋がりが出来ていたのか〜。 ) と思うことがありました。 SB さんは何と 16 歳からタバコを吸い始められたそうなので、喫煙歴は五十年を超えています。そして、ベトナムに来ても吸い続けていました。日本では奥さんや、娘さんたちから「お父さん、タバコを止めて!」と何回もうるさく言われたそうですが、なかなか止められずに、時には奥さんや娘さんに、隠れて吸っていたこともあったそうです。
SB さんと Y さんが親しくなって来た頃、 ニャーチャン へ Y さんが行く用事が出来ました。その時には魚釣りも兼ねて行くので、釣竿も準備されていました。それで SB さんが「自分も一緒に連れて行って下さい!」と Y さんにお願いしますと、 Y さんは次のように言われました。
「向こうでは相部屋になることもあるが、その時にあなたが一緒の部屋の中でタバコをスパスパと吸われたら堪らん。行きたいのであれば、条件がある。ニャーチャンに行く前までに、タバコをキッパリと止めること。」と。
そして驚くべきことに、 SBさんはその条件を受け入れて、それから見事にキレイさっぱりとタバコを止められたのでした。五十年以上吸い続け、奥さんや娘さんから喧しく言われても止められなかった喫煙歴を、 Y さんの一言で見事にそこで終止符を打たれました。それ以来、私たちの前でタバコを吸っている姿を見たことはありません。
SB さんと Y さんは、このベトナムにお二人がいる間は、バイクや列車や飛行機でいろいろな所を一緒に旅行されました。二人の話を横で聞いていますと、 Y さんがいつも冗談を飛ばし、 SB さんがそれに乗って、まるで漫才を聞いているような感じでした。
それだけに、 SB さんの日本への帰国を、一番寂しく感じられているのは感激屋、激情家の Y さんなのですが、 SB さんの帰国日が迫っても、努めて明るく、元気に振舞われていました。しかしこのSBさんの日本への帰国により、我々が以前から計画していた、 <南北縦断バイクの旅> からは、残念ながらお一人欠けてしまいました。
また SB さんは二年くらい前から、毎週の日曜日に 「人文社会科学大学」 の中で行われている 「東日クラブ」 という 「日本語会話クラブ」 に顔を出されていました。このサイゴンにはいくつかの「日本語会話クラブ」があります。私はいつもは、 「青年文化会館」 のほうの「日本語会話クラブ」に」参加しています。
天使たちが歌詞を死ぬことになっているとき
そして三月の最終の日曜日が、 SB さんの最後の「東日クラブ」になりました。それを聞いた私は、「その日が最後の東日クラブであれば、私が SB さんのために送別歌を歌いますよ。是非私も参加させて下さいますか。」と、 SB さんに伺いました。それからすぐに、 SB さんは「東日クラブ」の幹事に連絡を取りました。すると「 OK です!」との返事をもらいました。さらに私には、あと一つの目的もありました。
当日の朝 9 時半に、私たちは人文社会科学大学の新館のほうにある一階のエレベーター前に集合しました。私が着いた時には、すでに SB さんは来られていて、同じく「東日クラブ」に参加する日本人の人たちと談笑されていました。そして私たちは、エレベーターを使って、東日クラブがある教室まで上がりました。
そして着いてみて、あらためて今日の参加者の多さに驚きました。ベトナムの大学生さんたちが 80 人近く、日本人の参加者も 10 数人いました。ですから、この時には約 100 人弱の参加者がいたわけです。事実私は今回の「東日クラブ」の参加に当たって、この日に歌う歌詞のコピーを全部で 100 枚コピーしていたのですが、歌い終わった最後に残りを回収しましたら、 10 部くらいしか回収出来なかったのでした。
私たちが着いた時にはすでに多くの参加者が着席していましたが、私は約一年半前にこの「東日クラブ」に来た時のことを思い出していました。その時、そこには私が古くから存じ上げている K 先生がおられました。実はこの K 先生こそが、この「東日クラブ」をスタートさせた人なのでした。
私が、「先生が創り上げたこの日本語会話クラブが、今こうして多くの方が参加して、着実にこのサイゴンの中に根付いていますね〜。」と話しますと、ニコニコして喜んでおられました。そして K 先生は諸事情があり、昨年の五月にベトナムを去られて、今は中国で日本語を教えておられます。
「東日クラブ」では、最初に 『話し合いのトピックス』 という資料を配り、それに基づいて司会者が話しを進めて行きました。この日のテーマは 「風呂敷」 でした。日本で使われている「風呂敷」の歴史や由来、そして現在どのような使い方をされているか、その包み方、畳み方などが、図解付きで日本語とベトナム語の両方で説明されていました。
そして次にはゲームを楽しむような感じで、この教室にいる人たちを 6 つのグループに分けて、それぞれに二本のペットボトルを渡しました。そして日本から持ち込んだ風呂敷の現物を渡して、その風呂敷で二本のペットボトルをどうキレイに、見事に包めるかのコンテストをしました。
それぞれが、いろんな包み方をしていましたが、ベトナムで日本の風呂敷を使い、ペットボトルをどう上手く包もうかと、ベトナムの人たちが悪戦苦闘しているのを見ていましたら、本当に微笑ましくなって来ます。
全てのグループが包み終わった後、グループの代表が全員前に出て、その完成品をみんなの前で披露しました。そして拍手の数の多さで一番良いものを決めました。優秀者には賞品を渡していました。さらには、もうすぐベトナムを去る SB さんが特別に選んだグループにも渡しました。
そして 10 時半を過ぎた頃、司会の人が私に近付き、「次はあなたの番ですので、宜しくお願いします。」と言い、私にマイクを渡しました。私は教壇の上に立ち、最初に私の自己紹介と、 SB さんとの短くも、濃密なお付き合いについて話をしました。少しだけのベトナム語をキーワードの部分だけは使いましたが、みんなが日本語をある程度は理解出来ている「日本語会話クラブ」ですので、敢えてそのほとんどは日本語で話しました。
「 SB さんと私は約二年前に知り合いましたが、人生の大先輩でもあり、サイゴンでの大親友でもある方がこの地を去られると聞き、本当に辛いものがあります。ある人が異国に行き、そこに住んでしばらく暮らす時、その国が 『第二の故郷』 となるくらい、深い愛情を感じるようになることがあります。
しかしある人にとって、その異国が『第二の故郷』になるかどうかは、滞在した期間の長さではなく、どれだけその国の人たちと交流し、そこでどれだけの友人・知人が出来たかという、絆やつながりの深さではないかと、私は思います。
そういう意味では、 SB さんはふだんは Binh Duong で仕事をされ、日曜日はこの「東日クラブ」に参加されて、多くのベトナムの方々と知り合いになりました。皆さん方とのこのような深い交流を通して、間違いなくこのベトナムは、 SB さんにとって『第二の故郷』になったことでしょう。
それで今日私は、まもなくベトナムを去られる SB さんのために贈る歌を歌いたいと思います。あと、さらにまたこの歌を贈りたい方々がいます。」とここまで話して、私のカバンから日本の新聞記事を取り出しました。
私は日本での 「東日本大震災」 の写真や記事を掲載していた新聞を、この日の数日前に頂き、それをこの時「東日クラブ」に持参しました。それを前に座っていた男子学生二人に手伝ってもらい、地震と津波の被害の写真が掲載されているページを、両手一杯に広げてもらいました。
そこには津波で街ごと全てが流された大きな写真や、ビルの上にまで船が乗り上げている写真や、かろうじて難を逃れてまた再会し、抱き合っている家族の写真などが、カラーでなまなましく載っていました。
Tシャツ痛みの歌mp3
我々日本人にとっても信じられない光景ですが、ほとんど地震や津波を経験したことがないベトナムの人たちにとっては、想像を絶する写真でした。みんな目を見開いて、呆然として見ていました。私は皆んなの前に立ち、静かに次のように話させて頂きました。
「本当に一瞬で、家が流され、家族が行方不明になり、毎日通っていた学校も無くなり、自分が生まれた故郷がこのように無くなってしまったのです。何という悲しいことでしょうか・・・。私たちの祖国・日本がこのような大惨禍に遭い、私たちのように異国にいる日本人たちも、あの大震災以来ずっと深い悲しみに沈んでいます。今私自身も深い悲しみをこらえています。」
「しかし今日はみなさんの前で、力の限り、精一杯、歌いたいと思います。今から歌わせて頂く歌は 『サライ』 です。この歌を、もうすぐ 『弟二の故郷・ベトナム』 を去られるSBさんと、「東日本大震災」で家を失くし、家族を失くし、学校を流され、愛する故郷を失くして今困難に耐えている方々に、 ( いつかは必ず、自分が生まれ育ち、愛してきた故郷に帰るんだ! ) という気持ちで頑張って、未来の復興を成し遂げて欲しい!と願い、この教室から日本に向けて歌います。」
「今みなさんに渡しました歌詞の下のほうを見て下さい。ベトナム語の翻訳が全て付いていますので、この歌の意味も良く分かると思います。今被災地で困難に立ち向かっている人たちにとって、そして同じ日本人として、これほど今胸に迫ってくる歌はありません。そしてちょうどこれから日本は、桜が満開に咲くころなのです。」
♪まぶた閉じれば 浮かぶ 景色が♪
迷いながら いつか帰る 愛の故郷
さくら吹雪の サライの空へ
いつか帰る その時まで 夢はすてない
♪まぶた閉じれば 浮かぶ 景色が♪
迷いながら いつか帰る 愛の故郷
さくら吹雪の サライの空へ
いつか帰る いつか帰る きっと帰るから
そしていつものように研修生たちの前で歌う時と同じように、携帯電話に録音している歌の中から『サライ』を選び、ボタンを押しました。部屋にいる人たちが多いので、そのままでは音楽が聞こえないかと思い、携帯電話の小さなスピーカー部分にマイクを当ててもらい、音楽を大きく響かせ、私はマイクを持って歌いました。
♪遠い夢 捨てきれずに 故郷を 捨てた♪
穏やかな 春の陽射しが 揺れる 小さな駅
別れより 悲しみより 憧憬れは強く
寂しさと 背中合わせの ひとりきりの 旅立ち
みんな最後まで ( シーン ) として聴いていてくれました。日本人の参加者の中には、この歌を歌える人もいて、私と一緒に口を動かして歌ってくれました。私自身は、歌う前にみんなの前で話していた時に、感情が高ぶって来た瞬間があったので、最後まで歌い終えることが出来るかどうか自信がありませんでしたが、何とか最後まで歌い切ることが出来ました。
※ 谷村新司さん と 加山雄三さん が二人で歌う『サライ』には、いろんなパターンの YouTube がありますが、私はいつも以下のアドレスの『サライ』を好んで聴いています。
歌が終わった後、「最後に私から、ベトナムのみなさんたちにお話ししたいことがあります。」と言いました。そしてさらにカバンの中から、広い布を取り出しました。それは <日の丸の旗> でした。
これは私が今日本語を教えている研修生たちが、今回の大震災で被災した日本の人たちに心を痛めて、日の丸を作成して、それに寄せ書きしてくれたものでした。みんなが日本語でいろいろな言葉を寄せてくれました。大きさは縦が二メートル、横が三メートルもあります。一番下には次のような言葉が書いてありました。
<東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます>
ベトナム人研修生一同
今回日本で起きた地震は、いつか日本に行く研修生たちにとっても大きな衝撃でした。
すでに日本で研修している先輩たちは大丈夫だろうか?将来自分が行く場所は大丈夫なのか?今日本の人たちはどんなに苦しんでいることだろうか・・・?多くの研修生たちが心配していました。
それで会社からの寄付と、職員全員と研修生たちから義捐金を募り、それを三月下旬に日本領事館に持ち込みました。私と他二人の職員が同行しました。昨年の夏、わが社 ティエラ の 「ベトナムマングローブ子ども親善大使」 がここを表敬訪問した時に対応して頂いた K さんが出て来られて、応接室まで通され、そこでいろいろお話を伺うことが出来ました。しかし私たちが領事館を訪問した時にも、多くの日本人やベトナム人や外国の方々が記帳をしたり、募金をしたりしていました。
そして最後に、私はこの日の「東日クラブ」で次のように話しました。
「今日はこの東日クラブに参加させて頂き、本当に有難うございました。今日ここに私が足を運ばせて頂いた目的は、まもなくベトナムを去られる SB さんに贈る歌のためでした。さらにはまた、今回の大震災で故郷を失くした人たちが、 【いつか帰る故郷】 を再興するまで、夢を捨てないでみんなで力を合わせて頑張って欲しいという願いも込めました。さらに実は、あと一つの強い思いがありました。
今回の大震災の後、世界中から多くの励ましの言葉と支援を頂きましたが、このベトナムからも同じように、多くの支援を頂いています。それで、ベトナムの人たちの日本に対するさまざまな支援に対して、この「東日クラブ」に参加しているベトナム人のみなさん方に、ここで是非直接お礼を申し上げたいと思いました。それも言いたくて、今日ここに来ました。
私自身が、多くのベトナム人の友人・知人から、震災後に電話やメールで連絡を頂きました。『あなたの家は、ご家族は、大丈夫でしたか?』と。そしてまたいろんな人たちから [ Xin gui loi chia buon sau sac den nhan dan Nhat Ban.( 謹んで、日本のみなさまの深い悲しみにご同情申し上げます。 ) ] という言葉を頂きました。
何というこころ優しい言葉でしょうか。
私はあの震災後、毎日ベトナム語の新聞も読んでいました。そして今、遠いベトナムからベトナムの人たちが、困難な状況下にある日本、そして日本の人たちに寄せて頂いている優しさに、胸が痛いほどこころ打たれています。この新聞を見て下さい ( と言って、ベトナムの新聞を広げました ) 。ここに 【 Nhung tam long tu Viet Nam( 数々のベトナムからの気持ち ) 】 というタイトルで、今ベトナムの方々が日本の被災地の人たちに思いを馳せている 【数々の気持ち・こころ】 が載っています。
今多くの大学や高校や小・中学校、日本語学校やいろんな団体で募金活動が行われています。この大学でもすでに行っていることを、 SB さんから聞きました。毎日の新聞にも、寄付をした人たちの名前が載っています。社会人や大学生たちや、研修生たちが、お金を寄付してくれています。新聞に載っている名前の中には、どう見ても子どもの名前 ( Be ○○○○・・・ ) としか思えない名前の人もいます。
社会に出た人たちは給料がありますが、研修生や大学生や高校生や子どもたちは、どこの国であれ、親が養い、親の仕送りで生活しているわけで、余裕あるお金があるはずがありません。それでも貧しい学生さんたちが、自分から進んで自分のお小遣いの中から寄付をしてくれています。皆さんが寄付して頂いた、一万ドン、五万ドン、十万ドンが、被災地の人たちの、一杯の温かいご飯、熱いスープ、暖かい服や毛布になります。
大震災後には、多くの日本人があまりの悲しさに多くの涙を流しました。私もそうでした。しかし今また別の、多くの涙を流しています。皆さん方、ベトナムの人たちが寄せてくれている温かい支援に対してです。みなさん、期待していて下さい。日本人はあの試練・困難を一致団結して、必ずや乗り越えます 【 vuot qua 】 。
ベトナムの人たちが日本に寄せる <温かいこころ> に対して、私たち日本人はベトナムの方々の厚い支援を、ずっとずっと忘れることは出来ないでしょう。サイゴンに住んでいます日本人の一人として、ここにおられるベトナム人のみなさんの前で、厚くお礼を申します。ありがとうございます!」と。
私の最後の挨拶とともに、 11 時過ぎたころにこの日の「東日クラブ」は終わりました。 SB さんからは、「本当に有難うございました。胸から熱いものが込み上げて来ました。」とお礼の言葉を頂きました。
そしてこの二日後に、 SB さんはベトナムから発たれました。その時空港には、 Y さんがバイクで駆け付けて、最後の見送りをされました。さらには、「東日クラブ」の生徒さんたちが 8 人来てくれていたそうです。私は残念ながら空港まで行くことが出来ませんでしたが、飛行機に搭乗する直前に SB さんは次のようなメッセージを送って来られました。
「今ラウンジで、ワインを飲みながら感傷に浸っています。短い間でしたが、お世話になりました。これから走馬灯のように、ホーチミンの日々が思い出されてくることでしょう。」
いつかまた、「第二の故郷」に帰って来られる日があることでしょう。ベトナムにいる大親友や友人・知人、そしてベトナムの若い人たちに会うために・・・。
※春さんは1997年春よりホーチミンに駐在しています。今ではすっかり現地の人となって、見分けもつかなくなっています。春さんに質問や相談があればメールをお送りください。
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